犬、人に飼われる (3)ペットの大衆化

「ペット」という英語が誕生したのは、16世紀と考えられています。

「ペット」という言葉は、スコットランドの方言、あるいはフランス語を語源にしているのではないかと言われます。

スコットランドでは、親がいない子羊や子山羊を人工飼育することを「ぺティ」と呼んでいました。「ぺティ」とは、「小さい」とか「つまらない」という意味でした。

フランス語には、「小さい」、「可愛い」を意味する「プチ」という言葉があります。

イギリスでは、16世紀に機械制工業が発達し、土地を追われた多くの農民たちが都会に流れてきて、工場労働者として働くようになりました。

当時の労働者階級の生活は悲惨なもので、自然とのふれあいや温かい共同体の人づきあいを失ってしまった彼らは、ペットを飼うことで、心の慰めを得ようとしました。こうして、大衆にペットを飼うことが浸透していったのです。

17世紀、フランスでは、近代哲学の創始者とされるデカルトが「動物機械論」を唱えました。

「すべて生きて動くものは人間の支配に服し、人間の食物となる」という旧約・創世記の神言を先鋭化したもので、理性をもつ人間だけが「思考する主体」であり、それ以外の一切のものは、動物を含めて単なる「延長をもつ客体」に過ぎないという主客対立の二項分割法を主張したのです。

つまり、動物は、人間よりも低次にあるもので、霊性や感覚、感情、知能をもった存在ではなく、単なる「自動機械」にすぎないというものでした。

この機械論的な自然観は、自然現象を冷静に客観的、合理的に観察することで、自然法則を科学的、分析的にとりだせるようになったという点では評価されていますが、鞭で叩かれた犬が悲鳴を上げるのは、痛いからではなく、鐘が鳴るのと同じ単なる物理的反応にすぎないと決めつけたのです。

もちろん、その後の解剖学や生理学の発達によって、動物にも神経や刺激反応があり、感覚や感情をもつことが確かめられて、この主張は否定されることになったのですが、そのような科学的な証明を待つまでもなかったようです。

当時を代表するフランス人作家、メルシュは、次のような言葉を残しています。

「女は決してデカルト派にはなるまい。自分の子犬が抱きついてくるとき、犬には感性も理性もないという考えに同意することは、決してあるまい。デカルトがもしあえて彼女にこんなことをしゃべろうものなら、顔をひっかかれたに違いない。彼女に言わせれば、愛犬が忠実であるというだけで、すべての人間の理性を全部ひっくるめたよりも価値があるのだ。」

そして、今では次のような表現に変わったのです。

人間は、利益や喜びを与えてくれる動物に対して、神から保護と管理を委託されている立場で、親切に世話をし、愛情をもって接してやらなければならない。

ペットは、人間と動物のどちらでもあり、どちらでもない両義的な存在でしたが、現代社会では、ますます人間に近い存在になって、「人間もどき、人間まがい」のヒューマノイドになりました。

現代の飼い犬や飼い猫は、脱自然化され、脱獣化されて、「動物もどき、動物まがい」の生命ある「ぬいぐるみ」になっていったのです。

そして、新製品が出るたびに買い代えられる家電製品のように、ペットは大衆の欲望を満足させるための消費財となったために、生命あるものとしての尊厳が軽んじられるようになりました。

カテゴリー: 犬、人に飼われる   パーマリンク

コメントは受け付けていません。